阪神淡路大震災の経験と記憶

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こんにちは。
オチャノマ文具店のちょこです。

明日1月17日は、28年前に阪神淡路大震災が起こった日です。
当時大阪で暮らしていたわたしはまだ幼く、断片的にしか覚えていませんが、かたときも忘れたことがない記憶です。

オチャノマ文具店ブログを営むようになり、この記憶を記録しておこうという気になりました。

私事ではありますが、今回は28年前にわたしが経験した阪神淡路大震災当時の記憶と、地震にまつわる話をつらつらと書きたいと思います。

オチャノマ文具店ちょこ145cm

筆者:ちょこ
大阪から長野県松本市に移住して6年が経過。5年間をシェアハウスで過ごした後現地で嫁入り。
オチャノマ文具店ブログを営みながら、訪問介護ヘルパーとして働く介護福祉士でもある。
幼稚園の頃大阪の実家で阪神淡路大震災を経験した。

阪神淡路大震災の記憶
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阪神淡路大震災当日

地震が発生したのは1月17日の早朝5時46分。
わたしが住んでいた地域は震度6の揺れが観測されました。

地鳴りのような低い音

最初の揺れが来た時のことは今でもよく覚えています。
ごごごごごーという低い地鳴りのような音がして、怖くて布団を頭までかぶりました。

隣で母が「おとうさーん!」と叫んでいるのが聞こえて、ちょうど前日、母が「お父さんのいびきは地震みたいやな」と話していたのを思い出しました。

これは父のいびきの音なんだ、と真剣に考え、わたしも父のいびきを止めるべく母と一緒に「おとうさーん!」と叫びました。

たんすの下敷きになっていた母

じつは、そのとき母は倒れてきたたんすの下敷きになっていました。
本当は父に助けを求める叫び声だったわけです。

当時まだ幼かった妹たちの上にたんすが倒れてきた為、四つん這いになってたんすから妹たちを守っていました。

ちなみに、いちばん下の赤ん坊だった妹は蹴り出したのですが、真ん中の妹は熟睡して全く目を覚まさなかったのでしかたなく自分が盾になったのだと後から聞きました。

ガラスだらけの床

揺れが一旦落ち着いて、リビングへ行くと、食器棚から食器が落ちてそこら中割れたガラスだらけになっていました。

停電していた為すぐには気付かず、両親は裸足でその上を歩いたのですが奇跡的に誰も怪我をしませんでした。

また、電子レンジを載せていた台が横に50cmも移動していました。
みんなで「よく電子レンジが落ちなかったもんやな」と不思議がったのをよく覚えています。

寒さ

1月17日というと、さすがの大阪でも寒い頃です。
他の印象が強かった為か、ものすごく寒かったという覚えはあまりありませんが、母に上着を取ってくれと頼んだ記憶はあります。

大阪や兵庫は暖かい土地なのであまり問題にはなりませんが、これが東日本大震災のような東北などを中心とした地震だったらまた違ったことでしょう。

ラーメン

わたしはあまり覚えていないのですが、地震の直後に父がラーメンを食べたいと言ってすぐに火を使ったそうです。

阪神淡路大震災では揺れだけでなく、その後の火事での被害が大きかったのは誰もがご存じだと思います。

今なら地震の直後にすぐにガスを使ってはいけないというのは常識ですが、それがその当時いかに知られていなかったかがよくわかります。

もしあのときどこかでガスが漏れていたら、我が家もどうなっていたかわからない、と今でも震災のことを思い出して家族で話します。

マンション8階の揺れ方

わたしが住んでいたのはマンションの8階でした。
マンションの上の方というのは地震のときに、振られるような、ものすごく嫌な揺れ方をします。

当たり前かもしれませんが1階と上階では揺れ方が大きく違うようで、我が家ではたんすが倒れたりしたのに、1階の友人宅では棚のものが少し倒れた程度だったといいます。

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余震が続く頃

初めての避難セット

しばらくは余震が続き、子供ながらにカバンに大事なものを詰め込んだ避難セットを作りました。

中に入っていたのは、セーラームーンのケータイ電話のおもちゃなど何の役にも立たないものでしたが。

倒壊しかけた家屋

自分の家から祖父母の家に行く道すがら、地震のために倒壊寸前の一軒家がありました。

盛り上がった地面

余震などもようやく落ち着いた頃だと思います。
久々に幼稚園に登園して、バスを降りたときに見た景色はずっと頭に焼き付いています。

幼稚園のグランドが、何十cmも盛り上がっていたのです。

幼稚園に限らず、地震の影響であの頃あちこちでこのように地面が盛り上がる現象が起こっていたのだと思います。

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地震の後

防災頭巾の導入

それまでわたしが住んでいた地域の小学校の椅子の座布団は特に指定がなかったのですが、阪神淡路大震災以降、いざというときに防災頭巾として使える座布団に変わりました。

低い音が怖い

すっかり大人になってから気付いたことです。
トラックが近くを通る音や強い風の音など低くて大きな音を聞くと、身の毛がよだつほどの恐怖を感じます。トイレを流す音も怖いので、今でも流した後すぐに耳に指を突っ込んで塞ぎます。

そんなことみんなそうだと思っていたのですが、トイレの流す音なんて怖くないよ??と知人に目を丸くされたことがあり…
もしかしたら震災当日のあの地鳴りのような音がトラウマになっているのかな、と思ったりもします。

忘れられない揺れる感覚

震災以降、はっきりいつからかは覚えていませんが、3日に一回は体が揺れている気がして「地震か!?」とハッとする、ということがもう物心ついてからずっと続いています。

今でも月に一回は大地震に合う夢を見るし、次の瞬間揺れるかも、というのは一日に何度も考えます。
妹たちにはそういうことはないみたいなので、当時のことを覚えているかいないか(揺れているとき妹たちは寝ていたわけですし…)で違うのでしょうね。

大阪に住んでいた頃は、毎日通勤で地下鉄に乗ったり、梅田のビル群の中を歩いたりするたびに「今大地震来たら生き埋めになって死ぬに違いない」と考えてしまって、一刻も早く大阪を出たい気持ちでいっぱいでした。

長野県に移住した理由はそんなことだけではありませんが、けっこう大きなウエイトを占めていたのも事実です。

できるだけの備えをしておく

地震のことばかり考えてしまうから毎日ものすごいストレスを感じながら生活しているかというと、そんなことはありません。

無意識に地震のことを考えるのはもう当たり前のことになっていますし、できるだけの備えをしておくことでなんというか、これでダメならもうしょうがない、と腹をくくっているからです。

わたしは年に2回は避難セットの確認をします。
備蓄用食品や水の期限を確認したりするためでもありますが、夏場と冬場では必要なものが変わってくるからです。

松本の冬は氷点下10度以下になることもありますから、冬場は防寒も視野に入れて避難セットを作る必要があります。逆に夏場は水害の恐れも多いので、水濡れ予防や速乾性のある衣類などの準備をしています。

いくら備えても予測不能なことが起こるのが自然災害ですが、少しでも安心して暮らせるようにみなさんもこの機会にぜひ避難セットの再確認をしてみてくださいね。

この記事が何かの役に立てば幸いです。

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